職場のお昼休みに筋トレして腕が痛い私です。
タイピングするのも一苦労ですわ。まじで。
本当のスピリチュアルってなんなんだろう
本当のスピリチュアルとは何かということを考えまして、あれこれ調べました。
その中でも重要なエッセンスに気がつきましたのでみなさんにシェアしたいと思います。
得てして”スピリチュアル”って捉えようがなくて、それゆえにいくつもの形があると思います。
そのどれもがスピリチュアルであって、間違いや偽物なんてものはないと私は考えます。
言ってしまえば、見方によってこの世の全てはスピリチュアルだとも言えます。
しかし、より効率的なスピリチュアルがあるなとも感じます。
間違いはないが合理性はあると。
私は柔軟性合理主義の立場を取っていますので、合理性に目がありません。
効率のいい方法でアセンションできたり、人生の目的を達成できるのであれば、その方法を取り入れたいと思うのです。そこに感情とか伝統とかは必要ないと思います。(極端に聞こえますが、これは感情を無視するとか他者を顧みないとかそういう意味ではないです。どちらかというと私はエンパス傾向が強く他者を思いやるタイプです。ここでは自分の人生に置ける進み方の話ですね。)
なーんか難しく書いてしまいがちですが、頭良く見られたい訳ではないです。(取り繕ってもバレるぞ)
難しいことは抜きにして、本題に入りたいと思います。
本当のスピリチュアルとはどういうことなのか?
1、教祖を必要としない
本当のスピリチュアルは、自分の中にのみ神が存在していて、自分の外側に答えを求めません。
それゆえ”教祖”のように”自分の外側に神が存在する”かのような形式は取る必要がありません。
これはもちろん、チェーチャーやグルとなる人が必要ないという訳ではありません。テーチャーとなる人は、自分と同じ人間であり、少し先に学びを深めている同胞といった位置付けをとります。そのティーチャーからエネルギーワークの方法や占いの方法などを学び、自分を深めていきます。それは教祖のような形では行われないということです。先生と生徒が近いかな?
2、”教典”を必要としない
本当のスピリチュアルは単一的な正解がある訳ではなく、各人間一人一人の宇宙を尊重します。
ゆえに、一つの方向を示す本は必要とされず、いかにして自分の中の神に近づいていくかというヒントが書かれた手順書のような書物が重宝されます。
これは教典が有用出ないということではなく、教典ありきのスピリチュアルではないということです。書物もハサミも使いようってことです。
大げさに言えば真実の前には教典は必要なくなるということです。
3、哲学的なものだけで終わらない
しばしばブッダやキリストはいいこと言っています。
そしてそれを引き合いに出して、「みなさんも清く正しく美しく生きましょう」と諭します。
それを聞いた人々は、「全くもってその通りだ。そんなことは言われなくてもわかってるわ。帰って映画でも見て寝よう。」と思う訳です。
哲学は宗教と並んで、この先の世界にとって真実に近く有用なツールになり得ますが、哲学だけ追求していても、真実にはたどり着きません。
本当のスピリチュアルは、真理を理解したあとに、現実が動き出します。
それはさながら奇跡のように起こります。まさに魔法です。
ちょっと何言ってるかわからねえと思うが俺にもわからねえ。って感じです。
簡単に言えば、真のスピリチュアルに触れて、自分の人生を自分で動かしていこうと決意し、行動を重ねることによって人間関係での悩みが解消したり、恋人や結婚ができたり、お金が手に入ったり、欲しいものが手に入ったり、貴重な経験ができたり…と人生が実際に豊かになるということです。
また、真実のスピリチュアルはそのための方法を教えてくれます。例えば瞑想とかエネルギーワークとかね。
4、体系的な学びの場をもつ
本当のスピリチュアルというか、合理的なスピリチュアルは、体系的に学ぶことができます。
というのも、生まれながらにして透視能力がある人(いわゆる”見える人”)がスピリチュアルな学びを深めていく時、どうしても自分の能力に頼ってしまいます。コミュニケーション取れる存在から、この世の理を聞き、人生を深めていこうとします。
それ自体はなんら問題なく、むしろ一般の人にはできない道なので素敵なことだと思いますが、それが真実への近道かというとそうではない場合があります。
男性なら誰でも小便器の使い方がわかるかというと、アマゾンの原住民の男性は知らなかったりします。でも、たまたまコミュニケーション取ったのが原住民の男性だったなら、小便器の使い方はわからないけど小便の仕方はわかるよみたいなことになってしまいます。おしっこの仕方はわかるけど、小便器の使い方に関しては遠回りになります。何言ってんだ自分。
だいぶ話が脱線しましたが、スピリチュアルなことはアカデミックに学ぶことが真実への近道ということです。
独学で編み出したことが、100年前に別の人があみ題した方法だとしたら、初めからその方法を利用して、もっと別のことに時間を使ったほうが合理的ということです。
ただしこれは知識においてのみ通用する話です。
経験や感情は個人的な側面が強いので、過去の偉人が経験していても自分で経験することに意味があります。なので、今のあなたのその苦労が意味がないっていうことを言いたい訳ではありませんので。
タロットカード占いを例に出すと、タロットにも歴史があって、種類があっって、体系的に学ぶことができます。エネルギーワークにも、ハーブや占星術、カバラ、レイキ、チャネリング…それら全てにおいて学術的に学ぶことができます。それらをきちんとした学び舎で学ぶことで、真実に近いエネルギーを扱うことができ、遠回りせずに進んで行くことができます。
なんかもったいぶって言ってるけど、その真実を学べるところってどこだよって話になると思いますが、それはみなさんの縁の話になると思いますし、それぞれ違うとも思いますのでここで明言は避けておきます。
ここまで言っといて申し訳ないです。
何れにしても1つ言えることは、本当に学びたいのであれば自分が求める必要があるということです。
求めることで進める場合もありますが、必要とされなければ求めても進めない場合もあります。なんにせよ求めなければ始まりません。
求めて行動をし続ければ、自分の思った形とは違うかもしれませんが最適な答えが用意されていると思います。
合理主義者なんだろ?求めた結果が遠回りだったらどうすんだ?って言われそうですが、求めた結果遠回りに見えても、それがその人の通る道で間違いなんてないと思いますので、そこの遠回りは必要な遠回りなので合理主義に反しません。
以上が今私が考えていることです。
ねっむくて眠くて仕方がありません。
みなさんに取って何か役にたつ記事になればいいと思います。もちろん自分にとっても。
みなさんが真実に近くことができるよう祈っています。
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